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クレジット産業の歴史:一覧



力ードのはじまりと発展

クレジットカードは、1900年代初頭のアメリカにおいて、航空会社やホテル、石油元売会社や大手百貨店などが、①顧客の売掛金勘定の事務処理を正確かつ大量に処理すること、②顧客の取引データの保存管理と囲い込みを行なうこと、を目的に発行したものが、そもそものはじまりである。


しかし、世界恐慌や第二次世界大戦といった時代のうねりに巻き込まれ、新しい成長の芽は開かぬままだった。
だが、第二次世界大戦後の1950(昭和8)年、世界初のT&E(Travel&Entertainment)クレジットカード会社である、ダイナースクラブがアメリカで設立された。


設立のきっかけは、ちょっとしたことだった。
1949年、フランク・マクナマラという金融会社に勤務する紳士が、ニューヨークのメジャーズ・キャビン・グリルで食事(Dinner)後、支払いをしようとしたとき財布を忘れたことに気づき、非常に恥ずかしい思いをしたことによる。
彼は、自分と同じような失敗をした人が、決して恥をかかないようなしくみを作れないものかと考えた。
そして、友人のラルフ・シュナイダー弁護士、アルフレッド・ブルーミングデールと相談の結果、ツケで食事ができるようなシステムを作ろうということになり、三人で1万ドルずつ出し合ってクラブを作ったのである。
このクラブの会員証がダイナースカードである。


クラブは、①一流企業の役員や高額所得者などにターゲットを絞ったステータスの高いものにする、②旅行・飲食・娯楽・仕事にも役立つ便利なものにする、③接待交際費や宿泊飲食費などの正確な記録を会員に提供することを目的として、100名の会員と14のレストラン加盟店でスタートした。
創業一年めは6万ドルの赤字を出したが、5ドルの年会費を徴収するようになってから黒字に転じ、フランチャイズ方式を採用することで世界的発展を続け、現在に至っている。


その後、1951(昭和26)年にはフランクリン・ナショナル・バンクなどの銀行がクレジットカード業務を州内に限定して開始。
1958(昭和33)年には、アメリカン・エキスプレスVISAカードの前身であるバンカメリカカード(バンク・オブ・アメリカ)、1959(昭和34)年にカルテブランシュ(ヒルトンホテルカード)、チェース・マンハッタン・バンクと、こぞってカード業務に参入する企業および銀行が増大した。


1966(昭和41)年には、バンク・オブ・アメリカは州を超え、全米に向けてフランチャイズ方式でバンカメリカカードを拡大させた。
同年、このバンカメリカカードの動きに対抗して、他の大手銀行が中心となり、MasterCardの前身であるインターバンクカード協会(マスターチャージ)が設立された。
以降は、この二大銀行系カードとT&E系カードであるダイナースカード、アメリカン・エキスプレス、カルテブランシュが競争を展開するようになっていった。

日本のクレジットの原型

わが国において、「貸借」という経済現象がいつごろからはじまったのかは定かではない。


古代日本には、出挙(すいこ)と呼ばれる貸借があった。
これは、春の種まきのときに農民に稲を貸し付け、秋の収穫のときに一定の利息をつけて返済させるものである。


ただし、これはモノの貸借で、カネの貸借が登場するのは貨幣が作られるようになってからである。
わが国最初の貨幣は708(和銅元)年に鋳造された「和同開珎」だが(富本銭が最初との説もある)、カネを貸して利息をとる消費者金融専門業者が登場するようになったのは平安末期以降であった。
この高利貸しは、一般に「貸上」(かしあげ、しゃくじょう)と呼ばれた。
鎌倉時代になると酒屋や土倉(とくら)と呼ばれる質屋も登場し、貸上に代わり高利貸しの代名詞となった。


これらの営利的金貸し業者に対して、庶民が金銭や穀物をもちよって互いに融通し合う無利子・無担保の組織が生まれ、これを「頼母子講(たのもしこう)」(互助的な無利息融通組合)と呼んだ。


ところが頼母子金を受け取った後、懸銭(かけせん)(金銭や穀物のもちより)を怠る人も出てきたため担保を取るようになり、さらに室町時代になると利子を受け取るものも現われた。
これに対して「無尽(むじん)」はインドや中国の無尽財(寺院に寄付された金品のことである。それを利子付き担保付きで貸与し、その利息で修繕費や寺院経営をまかなった)を語源とし、もともと土倉などが行なっていた質物金融をさす。


しかし、頼母子がだんだん担保や利子を取るようになってきたために無尽との差がなくなり、江戸時代では主として上方では頼母子、関東では無尽の語が使われた。
講とは組合組織のことで、講の仲間は講中と呼ばれた。
講中は一定時期に集会し、毎回一定の懸銭を拠出した。
これに対し、入札またはくじ引きによって落札者(借入者)を決めた。


無尽、頼母子は庶民の生活救済的な目的を超え、次第に農民や商工業者の事業資金獲得の目的が加わるようになり、庶民金融機関の性格をもつようになっていった。
明治期に入るとさらに商業化が進み、それを営業的に行なう営業無尽が現われた。
それが、後の銀行や信用組合などの金融機関へと発展していったのである。


わが国におけるクレジットの起源をこのような頼母子講に求めるとの説もあるが、モノやサービスを介在した商品購入のシステムととらえるならば、江戸時代末期に輪島の商人たちが大阪方面で普及させた膳椀一式を頼母子講方式で販売する「椀講(わんこう)」、伊予(桜井の椀舟)の商人たちが日露戦争後にはじめた講の参加者全員に最初に商品を先渡しする「無尽講月賦」などがクレジットシステムの原型といえるだろう。

現代のクレジット元年は1960年

後にクレジット業界に多くの人材を送り込むことになる愛媛の呉服店「丸善」の田坂善四郎氏が、不特定多数への販売促進手段として「月掛け売り」と称してクレジット販売手形による(手形による月賦販売)を行なったのが1895(明治28)年であったが、本格的な月賦販売は、アメリカのシンガーミシンの日本進出により、1907(明治40)年からはじめられた。


その後、丸善の流れをくむ月賦百貨店の前身である「丸武」「丸共」といった企業が設立され、日本楽器(現ヤマハ)などがクレジット販売を行なったが、クレジット(月賦販売)が世間一般に広く注目されはじめるのは、昭和初期の不況期に入ってからのことだった。
当時の調査によれば、クレジット対象商品は自動車、家具、呉服、洋服、靴、ミシン、ピアノなど多種にわたり、1935(昭和10)年には東京市内の物品販売額の8%前後を占めていた。
そして、月賦デパートや現代のクレジット商法が出現するのは、第二次世界大戦が終結してからのことになる。


とくに、1960(昭和35)年は、日本ダイナースクラブが設立され、丸井が月賦をクレジットと改称し日本初のクレジットカードを発行した、まさにクレジット元年といえる年である。

クレジット業界激動の1960年代

・百貨店クレジットカードの誕生


クレジットカード元年の1960(昭和35)年はまた、百貨店の自社発行によるクレジットカードが誕生した年でもあった。


まず、西武百貨店が1960年に、東武百貨店と小田急百貨店と松屋が1962(昭和37)年に、伊勢丹と松坂屋が1963(昭和38)年に、京王百貨店と近鉄百貨店が1964(昭和39)年に自社クレジットカードの発行をスタートさせた。


しかし、これはVIP(上得意)の掛売り顧客のみを対象にしたものであり、現在のように一般消費者を対象にした本格的カード時代の到来は、昭和40年代まで待たねばならなかった。


・画期的な「ショッピングクレジット」登場


ショッピングクレジットが誕生したのも、1963(昭和38)年だった。
これは、信販会社(日本信販)が不特定多数の消費者個人に対して信用供与するシステムで、提携先企業(加盟店)が消費者に月賦販売した債権を信販会社が買い取り、集金代行を行なうというものだった。


全国どこでも自由に分割払いができるというこの画期的なクレジットシステムは、割賦販売組織を自社でもちたくてももてない百貨店やメーカーを中心に提携推進が図られていった。
このショッピングクレジットは、後の信販会社発展の大きな原動力となった。


・クレジット業界団体の発足


1963(昭和38)年には、業界団体の「日本クレジット産業協会」の前身である「割賦制度協議会」が発足した。
また、クレジット業界初の統一信用機関である「信用情報交換所」が設立された(1965年)。


そして、1967(昭和42)年には、前払割賦販売の規制強化対策として「前払式割賦販売連絡会」が設けられ、これらの三機関を統合して、「社団法人・日本割賦協会」が誕生した。
これが、現在の日本最大のクレジット業界団体である「日本クレジット産業協会」の前身である(現在の名称になったのは1985年)。


当時の協会の事業の柱は、①信用情報交換に関する業務、②前払式割賦販売部会に関する業務、③割賦金融・消費者金融関係について、④その他、の業務からなっていた。


さらに、1965(昭和40)年には、信販会社の業界団体である「社団法人・全国信販協会」が設立された。
また、1969(昭和44)年には、日本消費者金融協会(JCFA)が設立され、業界団体は、この時代にほぼ出揃ったのである。

流通系クレジット会社のルーツ

わが国のクレジットのルーツは、1895(明治28)年、愛媛県の呉服店「丸善」の田坂善四郎という商人がはじめた月掛け売り(品物を先に渡し、後で毎月売掛金を集金するという方式)が最初だといわれている。


丸善は、1904(明治37)年に九州の福岡に本拠地を移し、当時発展しつつあった八幡製鉄所や炭鉱労働者などのサラリーマンを対象に、20回掛け(商品の代金を20等分し、半端と2回分を頭金として現金で徴収し、残りを18回の手形で受け取るという19回払方式)や、交通機関を利用して移動する展示会方式の出張陳列販売などを生み出していった。


丸善は、月賦百貨店(漆器や衣類、家具、楽器などの月賦販売を扱う)といわれ、現在の流通系クレジット会社のルーツでもある。
丸善の方法を真似たり丸善で修業した弟子たちが、その後九州から日本全国へと独立していき、1910 (明治43)年には「丸武」(姫路)、「丸共」(大阪)といった月賦百貨店が設立され、その数年後には東京にも進出する勢いをみせた。


しかし、このようにして萌芽しはじめた流通系クレジット会社の前身は、1923(大正12)年の関東大震災により顧客や手形を失い、ことごとく崩壊した。
さらに震災の傷も癒えぬ1927(昭和2)年には金融恐慌、1929(昭和4)年には世界恐慌、1931(昭和6) 年には満州事変と、日本経済を不況に陥れる事件が立て続けに襲った。
ところが、このような不況対策として積極的に活用されたのが、クレジット販売だった。
この歴史的事実こそが、「クレジット業界の存在価値は景気と経済のけん引車だ」といわれる根拠になっている。


しかし、大正初期と同様に、昭和初期の流通系クレジットの萌芽もまた、1937(昭和12)年の日華事変、1941年からはじまった太平洋戦争によって摘み取られることになる。
しかし終戦後には、再び混乱と窮乏という不況のなかから流通系クレジット会社は再生していく。


現在の「丸井」の創始者である青井忠治は、丸共から独立してできた丸二商会で修業しており、「大丸百貨店」の前身である大丸商会も、月賦百貨店である丸善、丸武、丸共の流れのなかから誕生した。
また、「クレディセゾン」の前身である緑屋のさらに前身である和洋家具・岡本商店の創始者である岡本虎二郎も、丸善と故郷を同じくする愛媛県の出身なのであった。


そして、「OMCカード」の前身である丸興の設立者には、丸共の創設者の甥が関わっている。
つまり、直接的にせよ間接的にせよ、わが国の月賦百貨店のほとんどが、この丸善、丸武、丸共の流れをくんでいることになるのである。


一方、わが国で初めて流通系のカードが発行されたのは、終戦から15年、朝鮮戦争から10年経た1960(昭利35)年12月で、西武百貨店が最初である。
これは割賦販売法の規制を逃れる形で7回払い方式で開発されたものである。
その2年後には東武百貨店、小田急百貨店、松屋が、3年後には伊勢丹、松坂屋が、4年後には京王百貨店、近鉄百貨店がこれに続いた。


さらに8年後の1968(昭和43)年には三越が取引銀行である富士銀行、第一銀行(ともに現みずほ銀行)、三井銀行(現三井住友銀行)の消費者ローンと組み合わせた日本初のリボルビング方式のクレジットカードを発行した(融資限度額30万円、金利月0.8%、返済は銀行口座振替により、毎月残高の10分の1以上で5000円以上返済すれば、融資限度額範囲内で何度でも利用できるというもの)。


また、自社カード発行のリスクを嫌う一般百貨店やスーパーなどは、信販会社と提携して発行する形態の提携カード(信販会社側は代行カードと呼んだ)の道を選んだ。
自社カードを発行した一般百貨店のなかにも、提携カードを同時に扱うところも現われた。


このような百貨店やスーパーなどのカード化の動きは、信販会社のクーポンにも影響を与え、1966(昭和41)年には日本信販が従来の主力であったクーポンを割賦機能をもったカードへと切り替えた。
そして、その3年後にはセントラルファイナンス(旧中部日本信販)、オリエントコーポレーション(旧広島信販)、国内信販(旧鹿児島信販)が、4年後にはジャックス(旧北日本信販)がこれに続いた。
そして、これらの信販会社のそれぞれが各地域で百貨店との提携カードを発行することになる。


以上のような数々の激動を経て、現在の流通系クレジットの形態が出揃うことになるのである。

信販会社のはじまり

戦後のクレジット販売のルーツは、昭和20年代の「チケット」と「クーポン」である。


チケットは、1949(昭和24)年に京都専門店会(専門店会とは地域の中小小売店が集まってできた組織)が企業の職域を通じて発行した「分割払いのもぎりのチケット」がはじまりである。
このチケットは、それ以後、全国各地の専門店会へと波及していくことになる。


しくみは簡単で、まず企業の社員がチケットを利用するにあたって、企業に対して連帯保証をとり、あらかじめ一冊3000円程度の金額を印刷したチケット(切取りミシン線入りの金券で50円券、100円券などが綴り合わせてある)を社員に渡しておく。
そして、加盟店で分割払いで買い物をするときには、そのチケットを切り取って利用するというものである。
チケットを利用した社員は、商品購入代金の3分の1ずつを給料天引きで支払えばよい。


専門店会は、加盟店から手数料をとって、商品代金を立て替える。
社員が使った分のチケット代金は、職場が各社員から給料天引きして、一括して専門店会に支払うというものである。


この他にも、通帳方式(三枚複写の伝票を10セット程度の通帳にして利用するもの)や、小切手方式(小切手のように金額を記入して利用するもの)などを採用するところも出てきた。
通帳方式の利用限度額は3000円程度、小切手方式は2500円程度が一般的だった。


通帳方式の伝票は、一枚は専門店会用、一枚は加盟店用、一枚は顧客用である。
分割回数は3回で、各回の支払比率は4:3:3が主流だったようである。
この方式は、昭和30年代に入ると、限定票付き会員証式(加盟店備えつけの三枚複写の伝票を使い、会員証と限度額をチェックし、伝票に記入署名するもので、現在のクレジットカード伝票方式の原型ともいえるもの)などに発展していった。
限度額も、高いところでは30万円というところもあった。


専門店会を構成する加盟店は、一業種一社が原則だったことから、ある専門店会に入れなかった小売店会が集まり、また別の組織を作るなどしてチケット販売の競争が激化していった。
このチケットによるクレジット販売から生まれた全国組織が、現在の日本専門店全連盟(日専連)と日本商店連盟(日商連)である。


また、チケット団体の一部からは、現在の信販会社であるオリエントコーポレーション(旧社名・協同組合広島クーポン)やライフ(同・広島全職域指定店会)も誕生した。


一方、クーポンは1951(昭和26)年、日本信販が官公庁や一流企業の社員を対象(職域)に、百貨店を加盟店として利用できるものを発行したのが最初である。
クーポンはチケットと同様に、社員が買い物をした代金を日本信販が百貨店に立て替え、給料日に職域でクレジット代金を集金するものである。
それは、限度額3000円、3か月月賦からのスタートだった。


その3年後に、函館にジャックス(北日本信販)、広島にオリエントコーポレーション(広島クーポンから広島信販へと名称変更)、5年後に大阪にアプラス(大阪信用販売)などが設立され、地域の百貨店中心のクーポン事業を展開していった。


終戦後の貧しい時代には、現在の消費者信用のように、消費者個人に信用を与える基礎がなかったため、チケットやクーポンのように官公庁や企業の職域に連帯保証をとる形式での団体信用というものが主な信用供与の形態であった。


日本信販は、さらに全国の百貨店を加盟店にして全国共通に使えるクーポン事業を展開しようとしていた。
だが、日本信販の動きをよく思わなかった日専連、日商連などのチケット団体は、信販会社と百貨店に対するクーポン規制の運動を起こした。
その結果、行政を動かし「昭和34年通達」(異なる都道府県に所在する百貨店の店舗に共通して利用できるクーポンの発行禁止、一定金額以下での割賦販売禁止)という形で勝利した。


これにより日本信販は、営業基盤の縮小を余儀なくされた。
そして、この通達を追認する形で、1961(昭和36)年には割賦販売法が成立し、中小小売商保護という大義名分のもとに、わが国のカード事業の発展は大きく妨げられることとなったのである。


なお、昭和34年通達「割賦販売の自粛に関する通達」は、後の銀行系クレジット会社に対するリボルビング方式の割賦購入あっせん業の登録が認められたのと同じ日である1992(平成4)年6月19日をもって廃止された。

銀行系カード会社と国際カードの誕生

すでに1960(昭和35)年に設立されていた「日本ダイナースクラブ」と、その翌年に設立された「JCB」の発展に影響され、銀行系カード会社「DCカード」と「住友クレジットサービス」(現三井住友カード)が1967年に、「ミリオンカードサービス」(現UFJカード)が1968年に、「UCカード」が1969年に相次いで誕生した。


これらの銀行系カード会社の設立には、当時の状況が「銀行よさようなら、証券よこんにちは」という時代だったことが背景にある。
つまり、証券業界に対抗して預金獲得を行なっていかなければならない銀行業界の事情と、クレジットカード・ビジネスそのものが新規預金口座の獲得ならびに顧客の固定化につながるということが最大の理由だった。


そして1969(昭和44)年には、日本クレジットカード協会(JCCA)の前身である「カード六社会」(旧日本ダイナースクラブ、JCB、DCカード、旧住友クレジットサービス、旧ミリオンカードサービス、UCカード)という業界組合的な組織が結成された。
カード業界初のクレジットカードの紛失・盗難保険が導入されたのもこの年だった。


「カード六社会」は、日本でも新しく誕生したばかりのクレジットカードに関する問題に対して六社が知恵を出し合い、一致団結して解決に取り組んでいこうという目的で設立された。


また、相次ぐ銀行系カード会社の設立に影響され、信販会社は分割払い機能を備えたクレジットカードの発行をはじめた。
日本信販が1966(昭和41)年に、セントラルファイナンス、オリエントコーポレーション、国内信販が1969年に、ジャックスが1970年にカードを発行した。
他業態では、石油会社の出光興産や日本専門店会連盟(日専連)、緑屋などがそれぞれのカードを発行した。


そしてこの時期、国際カードが誕生する。
国際カードは銀行系カードからはじまった。


日本における国際カードは、日本ダイナースクラブが1963(昭和38)年に発行したのを皮切りに、次々と誕生していった。
JCBはアメリカン・エキスプレスと提携し(1967年)、住友クレジットサービスはビザの国際カードと(1968年)、DCカードはマスターカードと提携し(1970年)、ミリオンカードサービスもマスターカードと提携した(1971年)。
そしてUCカードはマスターカードと提携して1972年に発行、日本信販がマスターカードを1973年に発行した。


このように国際カードが発行された背景には、1964(昭和39)年から実施された海外旅行の自由化と、その後のパッケージツアーなどの人気による海外旅行熱の高まりと海外旅行者の急増があげられるだろう。

キャッシュレス時代への環境整備

現代は、コンビニに行けば、100円のおにぎり一個からでもクレジットカードで買えるような時代になった。
このような時代がくるまでに、どのような動きがあったのだろうか。


・口座振替が導入される


現在では当然のようになっている口座振替制度は、1955(昭和30)年の電話料金の徴収からはじまったが、クレジット会社が初めて口座振替を導入したのは日本ダイナースクラブの1962(昭和37)年からだった。
給与の銀行口座への振込制度も昭和30年代後半にははじまり、CD(現金自動支払機)が登場したのも1969(昭和44)年だった。


そして、クレジットカードの急速な発展と銀行の多様化にともなうキャッシュカードの普及、そしてPOS(販売時点情報管理)システムの発展などにより、キャッシュレス時代の萌芽ともいえる時代を迎えたのである。


・法律の整備


それにともない、消費者信用取引の公正化と健全な発達を図るため、割賦販売取引についてのさまざまな側面について取り決めた「割賦販売法」が1961(昭和36)年に制定された。


さらに、とくにクレジット販売と関係が深い訪問販売や通信販売が急成長した昭和40年代には、主に消費者保護を狙いとして割賦販売法の一部が改正され、訪問販売や街頭販売などでのトラブルを防ぐためのクーリングオフ制度などが導入された(1973年)。
また、訪問販売を規制する法律である「訪問販売法」が施行されるのは、1976(昭和51)年になってからのことだった。


・キャッシングの登場


日本初のクレジットカードによるキャッシングは1967(昭和42)年の日本ダイナースクラブによるが、その後、昭和40年代半ば以降から、信販会社や銀行系カード会社各社がキャッシングサービスの強化と充実を図り、昭和50年代になるとさらに拡大発展していった。


外資系消費者金融会社の日本進出、都市銀行のカードローン開発、信販会社の融資専用カード発行、消費者金融専門店舗の開設などの積極的な展開もみられるようになった。


また、多重債務対策と健全な消費者金融市場の育成を図る目的で、まず貸金業者の個人信用情報機関としての全国信用情報センター連合会(全情連)が1976(昭和51)年に、次いで信販会社や銀行系・流通系カード会社や外資系消費者金融会社の合意によりセントラル・コミュニケーション・ビューロー(CCB)が1979(昭和54)年に設立された。


こうした動きにより、現在のクレジット業界の基盤が徐々に築かれていったのである。

キャッシングとカードローンの誕生

キャッシングとカードローンは、どちらも「お金」そのもの、つまり現金を借りることができる融資商品であり、消費者金融に分類される。
クレジット業界における二つの違いは、キャッシングは短期間、緊急的な用途の融資で、カードローンは長期的、計画的な用途の融資であるということである。
だから金利は、キャッシングのほうが若干高い。


一方、ショッピングクレジットやクレジットカードを使ったショッピングは、デパートや専門店での商品購入代金をクレジット会社が消費者に代わってデパートや専門店に立て替えるというシステムであり、販売信用に分類される。


クレジットカードによりキャッシングサービスが開始されたのは1967(昭和42)年で、日本ダイナースクラブがはじめた。
当時は、利用限度額5万円、手数料2%であった。
その後、信販会社も金融機関と提携してキャッシングサービスを行なうようになった。


また、1972(昭和47)年には、クレジットカード会員に融資専用申込書を郵送してローン受付をするメールローンがミリオンカードサービス(現UFJカード)によって開始され、磁気ストライプ付きクレジットカードを利用して銀行のCD(現金自動支払機)から現金を借りるキャッシングも、国内信販と鹿児島銀行の提携によって開始された。


カードローンは、1978(昭和53)年3月に、三和銀行(現UFJ銀行)がはじめたものが最初である。
これは、①利用限度額50万円、②返済期間3年以内、③返済は現金を銀行窓口へ持参、④融資資格者は上場企業課長以上、⑤キャッシングカードとローン専用カードの2枚が必要、というものだった。


それから3か月後の6月には、三菱銀行(現東京三菱銀行)が普通預金に当座貸越をセットしたカードローンを発売した。
これは、普通預金口座から返済が行なわれるというもので、普通預金の残高がゼロになった場合に限りカードローンが利用できるというものであった。


その後、各銀行も同様なカードローンの開発に力を入れ、信販会社や銀行系クレジットカード会社もカードを利用したキャッシングサービスやローンの開発を行なっていったため、以降、カードキャッシングやカードローンを利用した消費者金融分野の融資拡大競争が激しくなった。


こうしたカードキャッシングやカードローンの市場拡大には、金融機関におけるCD機のオンライン提携の整備が拍車をかけたことを忘れてはならない。
カードキャッシングやカードローンという金融商品は、CD機のオンラインネットワークというインフラができて初めて、利用が可能となる商品だからである。

国際力ードブランドのデュアル発行が進んだ理由

いまでも「ビザ」とは海外旅行でパスポートと同様に必要な海外渡航の許可証だと思っている人もいるという話を聞く。
また、若手ビジネスマンの間でもビザ(VISA)というと三井住友銀行の仲間だと思っている人がいるらしい。
そんな疑問はここで解決しておこう。


ビザは、正式にはクレジットカードの国際ブランドである「VISA International」(本部ニューヨーク)のことを意味している。
バンク・オブ・アメリカ(バンカメリカ)が中心となって設立した銀行系カードの組織である。
各銀行にカード発行権と加盟店獲得権を与える本部機関であり、VISAインターナショナル自体はカードを発行していないのが大きな特徴である。
VISAインターナショナルは、常にお客である銀行に信頼される地球規模のカード決済のネットワークを構築することに全力をあげて努力している。


わが国においては、国内におけるVISAカードを展開する組織として旧住友銀行が母体となって住友クレジットサービス(現三井住友カード)が設立された。
また、とりまとめ組織として旧住友銀行、旧東京銀行らが中心となってビザ・ジャパン協会が設立された。


国際カードブランドで、「VISA International」と双壁をなすのが「MasterCard lnternational」である。
日本市場においては住友銀行がVISAを選択したために、他の銀行のほとんどはアンチ・住友陣営をひいた。


その結果、UCカード、DCカード、ミリオンカードサービス(現UFJカード)など、都市銀行が母体となって設立した銀行系カード会社のすべてがMasterCardブランドのクレジットカードの新規会員を増やしていった。
これにより、アジア市場、とくに日本における国際カードの市場シェアはマスターカード優位という状況が発生した。


VISAの課題は、マスターカード優位の日本市場でのシェア奪回である。
VISAは、従来から銀行系にのみカード発行を許していたが、1980年代後半に入り信販会社や流通系カード会社へ特別にカード発行権(スペシャルライセンシー)を認めるという思いきった戦略に出た。
それにより、日本信販、クレディセゾン、ダイエーOMC(現OMCカード)がVISAの特別発行権を獲得した。
マスターカードはすでにこれらの企業にも発行権を認めていたため、VISAとマスターカードという国際カードブランドのデュアル発行が可能となったのである。


これに対応すべく銀行系カード会社であるDCカードがVISA<の発行権を獲得し、UCカードやミリオンカードサービス(現UFJカード)もこれに追随した。


そうなると、VISAのみを発行している住友クレジットサービスだけが取り残されることになる。
そこで住友クレジットサービスも、VISAのフランチャイズ企業がマスターカードを発行できるよう、1989年にオムニカード協会というマスターカード発行のための団体を旧東京銀行、旧あさひ銀行など40社を母体として設立し、ようやく銀行系カードのデュアル発行体制が整うことになる。


ただしJCBだけは、ナショナルブランドとしての国際化路線をとり、JCBプラザの出店を加速したり、海外の金融機関との提携によるカードの現地発行や加盟店開拓を行なうなど、独自の路線を歩んでいったのである。